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フリーライターの吐きだめ

高野豆腐

東京の電車に揺られていると自分が何をしてるのか、どこに向かっているのかよく分からなくなることがある。幼い頃から冷めてるよねと周りに言われてきたから、自分のテンションを相手に自然と合わせられるようになった。世間一般でいうサービス業にあたる今の仕事ではそれが役に立っていて、女子校みたいな職場の人間関係にも慣れてしまった。慣れは恐ろしい、知らぬ間に私は私を消費している。

最近やっとMacBook proを手にして、さらにようやくサイトの開設までたどり着いた。分からないことばかりだけど、スタートはみんな同じだと思うと心細さはいくらかマシになる。なによりいざという時に頼りに出来る人が、いっしょになって悩んでくれる人が側にいるのは心強い。心が何となく焦っているのはスキル不足よりも書きたいことがない気がしてしまっていることだ。私なんかが伝えられることなんてあるのだろうかとか、そんなしょうもない考えが過り始めるともうどうしようもない。分かってる、なんでもやってみなきゃ分からない。なんでもいいからやったやつが強い、足踏みしてるやつより震えた足でも踏み出したやつが正解だ。分かってる、ちゃんと分かってる。私は怖いだけだ。

消費され続けた心はすぐには戻らないけど(経験済み)、この前のお休みは引きこもり宣言をして本当に家からほとんど出ずで少し回復した。人のことは好きだし、人見知りも滅多にしないけど、不特定多数(頭のおかしな人も含めて)の他人を毎日相手にしているとさすがに疲れてしまう。接客はもちろんパワーを貰うこともあるけど、奪われることが多いのが事実だ。そんな日々が続くと満員電車に乗ってるだけで泣き出しそうになる、これが私のメンタルの警笛だ。強制的にシャットダウンしなければいけない。

このブログの更新までにいくつも下書きが書き溜めてあったけど、なんとなく公開する気になれなくてそのままにしていたら前回の更新より間が空いてしまっていた。その間、新居はようやく片付いて近所の有名な支那そばも食べた。(塩と醤油の2種類があって、わたしたちは塩派だった)大学生の頃してたバイト先の友達といちご狩りにも行ったし、日本橋にもHUBがあることを知った。最寄り駅の近くのセブンで携帯を落として人の優しさを感じたり、新しく入ってきた後輩の指導に手を焼いたりしていた。ちょうど1週間前には髪を少し切って、柔らかなベージュに染めた。初めて行った中野の美容院で「すごく楽しかった、よかったらご飯でも行きませんか?」と俯かれて、好きだった先輩のことを思い出した。ふたりは何となく似ている。

許し許され合う結びつきを愛とするなら、わたしは多くの愛の形を知っている。母から子へ、師から弟子へ、同志へ。それでもなぜか愛することには自信がなくて、というか愛に確信が持てなくて、愛されるがままで、自分に対する愛はなんとなく全部嘘っぽいなと思って生きてきた。それってわたしを愛してくれる全ての人に対して猛烈に失礼なことだと思ってるから、面と向かってなんてとてもじゃないけど言えない。けどそれが本心で、認めたくないけど、それを認めなきゃわたしは先に進めない気がする。そしていつか、というかなんとなく今もこれが愛することだといいなと感じる日々があって、贅沢な身だと思う。例えば疲れて帰ってきた人のために部屋を暖めておくことや、お腹を空かせて帰ってきた人のために蕎麦を茹でておくこと、そんな些細なことが愛することであるならば愛することはわたしが考えているよりずっと容易くて優しくて身近な存在だ。

今日はめずらしく帰りの遅い人を待ちながら水色のネイルを塗った。その色好きだねと言う人はわたしのことをよく見ている。眠る前にUNOしようと誘うと口先ではじめたりする、きっとこの人はわたしが冬に花火をしようと言っても呆れたりせずにいっしょになって花火を探してくれる人だ。

最寄り駅に着くと雨が強く降っていたけど、中華料理屋のいい匂いがして早く家へ帰ろうと思った。