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フリーライターの吐きだめ

暗転

ここ最近は雨が続いている。濡れると冷たくて、爪先が悴むような冬が近づいている雨だ。外出も多くて、人の悪意に傷付けられることも多い。念入りに巻いた髪がぐしゃぐしゃになったり、出先で買った傘を何度も忘れたり、ささやかで憎たらしい仕打ちに心は摩耗していく。街中でもいい、好きな男の腕の中でもいいから思う存分に喚いて泣き散らかせたらどんなにスッキリするだろう。今の私は泣く気力すらなくて、精々それっぽい楽曲を聴きながら夜道を散歩する自分に酔うくらいしかできない。

移動中もやたらと掛かってくる着信にうんざりして一時停止させられた動画を再生する。乗車時にかざしたICはきちんと反応したのか分からないし、雨の中コンビニで買ったあんパンはどうして買ったのかも分からない。突然の晴れ間にさえ腹が立つ。こんなことばかり吐き出していると自分がいかに余裕が無くて荒んだ状態の女なのかが嫌というほど分かる。

私は大切にされるべき人間だという自己肯定感は健全に生きていく上で必ず必要なものだと思う。それは自我が芽生えて自分で蓄えるものだったり、それ以前に周りから無償で与えられたものだったりする。半々くらいで成り立っている私の場合、落ち込んでもそれほど引き摺りはしない。けど、切っても切り離せない自分のこととなると別かもしれないと日常に見え隠れする自己嫌悪で気付かされる。

「そういう人も結構いるよ」「そういうのもありなんじゃない?」「今時わりとスタンダードかもよ」「あなたが幸せならいいと思う」全部ぜんぶ他人だから言えることなんだと思う。その距離感をこえると途端に私は不誠実で頭のおかしい人扱いされる。やっぱり無理だと縮まった距離をすぐに他人以上に突き放される。「それでもいい」と話した人はパートナーになった途端に「やっぱり嫌だ」と告白した。「ああ、やっぱりそうだよね」と笑って返事をしたような気がするけど、あの瞬間わたしは好きな人の前で本当に自分らしくいることを諦めたように思う。「それってただの我儘じゃん」なんて言われたら何も言い返せないと思うし、「そんなの気持ち悪い」って言われてもそうだよねって笑うしかないと思う。「そういう人もいるよね」って言葉には、でも自分のパートナーにしないけどねって言葉がこびり付いていて、「そういうのもいいと思うよ」って言葉には他人の距離感が必須条件だったりする。

本当の自分を理解して貰いたいと思うことは我儘で不誠実で気持ちの悪いことなんでしょうか。信じてほしいことも信じて貰えないなら始めから嘘をついてたっていいじゃないか、それくらい許されたいじゃないか。だって、そうでもしなきゃ誰が私を認めてくれるんだよ。