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フリーライターの吐きだめ

目から鱗

今月で無事に26歳を迎えたけれど、何度お世話になったか数え切れないサイゼリヤで、本日、人生初めて気付いたことがある。わたしは他人の気持ちがよく分からない。この場合の他人は自分以外のことを指していて、それが親友であれ、家族であれ、恋人であれ、わたしには他人の気持ちがよく分からない。実際「わたしって人の気持ちが分からないんだよね」そう声に出した途端に、胸に支えていたものが何となくストンと収まるべきところに収まったような感覚があった。対面に座ってわたしの告白を聞く人は動じることなく当たり前のように「そうだと思うよ」と頷く。大盛りのペペロンチーノにオリーブオイルをかけながら「というよりも、あなたは言語化されたことについての理解はとことん出来るのに察することが苦手なんだと思う」と続ける。「察せよ文化の日本はきっと生きづらいと思うよ、あなた感性がほとんど外国人だから」あまりにも淡々と話すものだから、まるでこの人はわたしの説明書きを読んでるかのような気持ちになる。「普通わかるでしょう?」「言わなきゃ分からないの?」この類の言葉を今まで何度聞いてきたことか。幼い頃から疑問だったことのひとつに自分がされて嫌なことは他人にしないという教えがある。自分の常識が他人に当たり前に適応すると思ってる考え方が理解できなかった。その人にはその人だけの喜びや悲しみがあるはずだ。そういう思いが昔からあって、事あるごとに「どうして悲しいの?」「何をされるとつらいの?」そう聞いてきたけどほとんどの人は怪訝な顔をした後にそんなことも分からないのかと溜息をつく。つくづく普通って何だろうと思っていたから、正直言うと今日のわたしの気付きはわたし自身のかなり救うものになった。そもそも普通を強要してくる層の人たちはその普通が多くの人の優しさと甘えで成り立ってることに気付いてるのだろうか。いくつもの感情の犠牲の上で成り立つ普通を信じて疑わない人たちのことをわたしはこれからも恐れ続けていくと思う。普通は家族と仲が良くて、普通は異性と結婚して、普通は浮気は許されなくて、普通に次は何でしょうか。悲しかったね、辛かったね、幸せそうだね、いつも元気だねって表面で同調することは簡単かもしれないけど、わたしは本当に他人を理解したいから何度も何度も繰り返し聞いてしまうんだと思う。例えまたその質問の後にあの呆れ顔を差し出されるとしても。他に考えられるのは言語化できない人が実際は多いんだろうなという考え。日本人だからなのか分からないけど感情に脳を支配されて言葉にできない状態が出来上がる、そこにわたしが言語化してと追い討ちをかけるから、出来ないことに葉っぱをかけられて不機嫌になってる人も多いんじゃないかと思う。だからこの気付きも、考えも結局はまたひとつのわたしの傲慢な考え方だろうし、わがままだとも思う。他人に期待しない人生は楽だろうな、分かっていても期待し続けて生きていたいのが今のところわたしの人生。感覚で生きて、言葉できちんと残していきたいです。