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フリーライターの吐きだめ

冬瓜

世田谷通りにかかる多摩水道橋は街を渡す大きな橋だ。橋の上に等間隔に並ぶ電灯はすらりと高くて目を光らしたキリンみたいに見える。そういえば大学4年生の頃、江ノ島で初日の出を迎える予定がのんびりしすぎて多摩川で初日の出を迎えたことがあった。暖かい小田急線の中から見る太陽は柔らかくて美しくて、向かいに座っていた男の子たちの静かにはしゃぐ声が心地よかったのを覚えてる。

1年の1/12の時間が過ぎたわけだけど、あっという間というほどの感覚はない。とくに最近は色々な人と話す機会や時間が本当に多くて日々を流すことなく咀嚼して過ごしてるように思う。(それでもやりたいこと全てを出来てるわけじゃなくて、フラストレーションが溜まったりしてしまうけど)

2ヶ月ぶりに行った美容室でfigaroの石井ゆかりさん特集の記事を読んだ。占いとかおみくじとか信じたいことだけ信じちゃおってスタンスだったけど、どこで私のことを見てるの…?と思うほど当てはまっていて怖かった。私は今、人間関係の大転換期なのです。

関係の延長線に身体の関係があるだけで自分の感情がよく分からないんだよと溢す人は、町田のハブでただただ寂しいんだとウォッカを飲みながら告白した。寂しさとは厄介なもので時限爆弾のような破壊力と強迫性があると思う。だって人格さえも変えてしまったりするじゃない?とはいえ、私は他者との関わり合いの中で孤独を感じるのは当然のことだと思っている。もちろん寂しいというストレートな感情を抱くこともあるし、それがたとえば恋人に対しての寂しさなら思うことやその先の気持ちも含めて相手に伝えることは大切なことだと思う。

ただ私の感じる「孤独」は持って生まれた器に対する感覚のようなものだ。満たされていない器に孤独を感じる人もいれば安堵する人もいて、そこに対する感覚の違い。器は自分で満たすことも出来れば他者から満たされることも出来るし、それは知識や慈しみ、憎しみとか愛とか何だって受け取ることが出来るものだと思う。

(でもその感情の抱き方は家庭環境やコンプレックス、トラウマなんかの根強く根深いものが関係すると思うから難しい…)

話をしていく内にどうして遠くに行ってしまうのと引き留める人が多くてさすがに疲れてきた。その言葉を聞く度この人から離れるときが今なんだろうなと確かに思う。私の身体も私の心も私の人生も、全部ぜんぶ私のものだ。私が選んで私が捨てる。そのくせに自分のためだけじゃ踏ん張りきれないところは自分の嫌なところなんだけど。

暖かい夜が続いた日、出版社でインターンしてた頃にお世話になった先輩(以降、比出さん)と久しぶりに飲みに行った。比出さんはすてきな奥様がいるのにも関わらず、若い女がすきで最近は新橋の路地裏にあるスナックに勤めてるフィリピンの女の子がお気に入りらしい。占いの話をすると「それはほんまに大転換期やなあ…」と深く頷いていた。比出さんは奈良の出身、「そやけど、まほちゃんは相変わらず動じひんなあ」インターンの頃からこの子は静かに燃えてるタイプやと思ってたけどなと笑われた。比出さんの分析はわりと当たっているから少し恥ずかしかった。

なんとなく台風の目の中にいるみたいな感覚が続く。穏やかな晴れ間の中から考えることを選べるのは幸せなことで、きっと当たり前にあることじゃないんだろうな。

最近はアラビア語を習得しようと思って毎日レッスンを聞くようにしてるけど、難し過ぎて心が折れそうなのでいっしょに学ぶ友がほしい…。我こそはと思う方はぜひ、連絡してください。