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フリーライターの吐きだめ

雨も届かない

最寄り駅の赤坂、3番出口にはエスカレーターが無くてあるのは階段だけだった。少し長い階段は、その日の雨で既に濡れて滑りやすくなっている。手摺りに指を添わせながら「もしも」に備えて、少し急ぎのヒールを鳴らす。

約束の時間はとうに過ぎていて、財布を忘れてしまった私のドジさを恨むしかなかった。「ご馳走するから、取りに帰らなくてもいいんだよ」と話すその人は慌てて波立つ私を優しく宥める柔らかな風のような人。

降り始めた雨と急ぎ足で帰ったお陰で、モーブピンクのリブワンピースは裾元の色が変わってしまっていた。少し汗ばんだ背中と巻の取れた後毛にテンションが下がる。

階段を駆け下りながら視線をふと前へ。サラッとしたセンター分けの黒髪と、レンズ越しの意思の強そうな目が印象的だ。目が合って、お互いに少し首を後ろに傾けるほどだったけれど、大人だからすれ違った。

それからほんの少し後、遠慮がちに、でも確実に近付く距離に「ああやっぱりな」と思ったし、階段だから分からなかったけれど彼は背が高かった。

少しきっちりした打ち合わせの後だったから、久しぶりにヒールを履いていたけれど、そんなの関係なしの彼の身長はいつかの記憶から大体180センチってとこだろうか。女にしては身長のある私は、気を付けないと隣の男性を優に越してしまうのだけど彼の隣では、そんな心配は不要なんだろうな。

「そんなに急がなくてもよかったのに、走ったの?」よしよしと私の汗ばむ背中を往復する手は温かくて「ごめんなさい」しか言えない私に「大丈夫だよ」と何度も繰り返し優しく笑った。

予約の時間は大幅に過ぎていたけれど、彼が選んだお店もバーもちょうど良くて、お互いに何となく慣れを感じながら隠しながら、居心地の良さと純粋な楽しさに溺れて触れたくなった。

帰り道、アイスコーヒーを買って飲みながら歩くと思っていたより風は冷たくてホットにしておけば良かったと後悔した。「じゃあね」とグーグルマップを起動させる私に可愛いと笑い出す彼に困惑しながら「駅まで送るよ」と話す彼に甘えることに。

並んだふたつの傘は信号が青に変わる頃には、ひとつになって彼の手はやっぱり温かった。「手冷たいね」と話す彼に「そっちはずっと温かいね」と笑うとグッと引き寄せられる。透明のビニール傘が今だけは憎らしい。

「じゃあ仕事が終わったら連絡して、迎えにいくから」がんばってねと優しい声で私を撫でる人はやっぱり春の風みたい。会っていたばかりなのに、会っている時から「今夜また会えたりしない?」と話すその人の言葉はどうやら冗談じゃなかったらしい。分かったと頷いて手を振りながら信号を渡る。

歩き出して踵が痛んで気付く、いつから靴擦れしてたみたい。血が出て酷く痛み始めたけど、何より気付かれなくて良かった。きっとあの人は必要以上に心配するだろうから。

それからは海へ出掛けたり、夜中にカップラーメンをすすったり、芝生の上で寝転がったりして過ごしている。何の恥じらいもなく口から出るその人の言葉や、底に触れない優しさに時々ものすごく怖くなる。ふと気付けば、また靴擦れしてるんじゃないだろうか。

陽が海に沈む前、眩しくないようにと着ていた水色のシャツを私の右側に垂らしてくれた。シャツ越しに見る大きな夕陽は柔らかな青で、ため息が出るほど綺麗だ。「結婚しようか」左から聞こえた声に思わず振り向いて、わたしはただ彼を抱きしめることしか出来ずにいた。

やっぱりまた靴擦れしてるんじゃないだろうか。