war

フリーライターの吐きだめ

牛丼並盛りつゆだくで

彼と初めて会ったのは春先のまだ風が冷たい頃だった。東京スカイツリーの側に流れる川辺の桜が満開を迎えていて、道ゆく人々が次々と立ち止まりシャッターを切っていく。暖かな陽気が続いていたのに彼と会うその日だけは底冷えするような気温で、カーハートの薄手のアウターだけでは心許なかった。待ち合わせは浅草寺、緊急事態宣言下ではあったけれどそれなりの人出はある。待ち合わせての第一印象は思っていたよりも身長が低いなというのと物腰が柔らかな人だなという感じ、想像より声も少し低かった。近くの焼き鳥屋に入って椅子に腰を掛けた彼の背中を見てマルジェラのマークを見つける。「わたしもすき」と言いながらちょうど持ってきてたバッグを見せると、明らかに緊張して強張った顔が少し綻んだ。目尻に皺がよって良く通る声で笑う、品の良い人だなと思った。生ビールを注文してひとしきり話をすると「本当に誰とでも仲良くなれそうだね」と褒め言葉のような線引きをされたのを今でもよく覚えてる。空いたグラスが増え始めてこれからどうしようかの視線、肌寒い夜の空気が熱を持つ頬を撫でるのが気持ちいい。上野を軽く散歩して気付けば彼の家で彼お手製のカクテルを飲んでいた。爽やかな甘さが美味しくて、ぐっと腕を掴まれた時にそこはちゃんと雄なんだなと思った。何度も汗だくになって気付いたら朝になってて、それでもまた懲りずに汗をかいてシャワーを浴びた後に暖かい紅茶を飲んで彼の家を出た。「送るよ」と上着に手を伸ばした彼に「ちょっとひとりで歩きたいから」と言うと「次は朝もいっしょに散歩しよう」と抱き締められる。澄んだ朝の空気、沈んだ春の匂いを胸いっぱい吸い込みながらゆっくりと歩いて帰る。男の人に茶葉から紅茶を淹れてもらったのはその夜が初めてだった。二度目は初めて会った時からもう一年以上経った七月、陽が落ちても空気の蒸した夏の上野。もう随分と会えてなかったから少し緊張していた。あれから何度も連絡は取り合っていて、会いたいと話されることもあったけれどことごとくタイミングが合わなかった。待ち合わせ時刻ぴったりに到着した頃、少し遅れると連絡が入って空調の効いた薬局に避難。不忍口の駅前はいかにも待ち合わせ場所で、彼を待つ間に執拗なナンパの相手をするのに心が摩耗する。困り果てた頃を見計らったかのように彼が現れて、あの夜みたいにぐっと腕を掴まれた。何度もごめんねと本当に申し訳なさそうに言う彼は目の前の女の子と全力で向き合うのがとても上手で、分かっていても悪い気はしない。ああ、これ、いろんな女の子が好きになっちゃうんだろうなあとか俯瞰で見れるくらいの距離感がちょうどいい。久しぶりにお邪魔した彼の部屋は以前と何も変わっていないように見えた。冷えたジントニックを飲みながら駅前の成城石井で買ったちょっといいおつまみを食べる。「これ大したものじゃないんだけど」そう言いながら誕生日が一日違いの彼にプレゼントを渡すと持ってた箸を放り投げる勢いで喜んでくれた。あげるつもりなんて元々は無かったけれど当日になってふと思い付きで買ってみた。宮下パークでこれだと思ったお香、自分用にもちゃっかり買ったムスクが香るウッディなお香。火を付ける度に思い出せばいいのになんて、ほんの少しだけ下心を添えた作戦はどうやら成功みたい。飽きないのが不思議なくらいにまた何度も汗だくになって、そうしてまた朝が来て、焚いたお香の甘い香りに蕩けたままの頭が侵蝕されていく。シャワーを浴びた側からまた汗だくになって、気付けば太陽は私たちの真上まで昇っていた。すっからかんになったお腹、駅まで送ってくれる彼の横を歩いて居ると「これ、いつでもおいで」と合鍵を渡された。「ホテルとかじゃなくていつでも家に泊まればいいじゃん」そう話す彼は決してふざけて物を言ってるわけではない。中性的で決して否定しない、でも自分の意見をきちんと持っていて、音楽を生み出す才能を持つ人。据え膳はちゃっかり全部食べて、ホスピタリティに溢れていて、二つ年上の彼。「じゃあ今度はお言葉に甘えちゃおうかな」と冗談めかしで笑うと連られたように彼もまた笑って「本当に、何も遠慮しないで」と続けた。帰り道、ひとりで電車に揺られながら貰った合鍵を優しく握ってみる。終点は渋谷、空っぽになったお腹が激しく鳴って吸い込まれるように松屋に入った。牛丼並盛りつゆだくで、消え去ったアイラインなんてどうでも良くなるくらいに朝帰りの牛丼は美味かった。